ルービー

ビール飲んだよ。わァ、ビールなんて久しぶりだわ

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冗談

たとえ冗談であっても、「どうしても相手が見つからなかったら結婚しよう」とか、「おれ、好きですよ」「ありがとう、私も好きよ」というやりとりができるのはウレシね。

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オレンジデイズ

正直、ラブ・ストーリーのテレビドラマは心の中で馬鹿にしていたのだが。

「オレンジデイズ」が再放送されていた。

柴崎コウが素晴らしかった。前々から名前と顔と世間的な知名度くらいは知っていたが、素晴らしい女優だと思った。

可愛いとか綺麗とかだけじゃなく、演技がバッチリはまっている。

むかし「東京ゴミ女」という映画で彼女が演じていたアバズレ役も印象的だったが、うそとほんとが表裏一体でミステリアスな感じがいい味を出している。

男女問わずそういう人が好きなんだね、あたし。

あとオレンジデイズの甘酸っぱい学生ストーリーにいちいちキュンキュンしていた。はっきり言って話に無理がある。だがそれでいい。それがいい。

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「らしい」「らしくない」

「○○らしいなぁ」を口癖のようにほめ言葉にする友人がいる。

オイラはまじめそうに見える(まあ実際まじめなんだろうが)からか、過去のぶっとんだエピソードを話すとかなり驚かれる。いま「ぶっとんだ」と書いたが、じつは本人的にはそんなつもりはなく、たまたまそうなった事を話しているだけなのだが「意外だ」と驚かれる。

「てんびんの詩」という映画(教材?)がある。じつに素晴らしい話なのでその友人に熱っぽく語っていると「オマエらしいなぁ」と返事があった。

同じく、とあるオイラの過去のエピソードをおもしろおかしく話していると「意外だ」と驚かれた。そんなことするような奴には思えなかったらしい。

で、「それって偏見だよなぁ」なんてぼんやり思っていたのだが、うむむしかし、自分がどう思おうがそれは結局「自分がどう思ってるか」だけであって、「人にどう思われるか」は変えようがないんだな。だから、差別はなくならない。偉そうに言ったってオイラにだって偏見はある。ここで「偏見はいけない」なんて騒いだって何の意味もない。

以前とある外国人に「キミは日本人なのにいいやつだな」と言われたことがある。

「ボクきっかけで日本人のイメージが変わってるのならいいんじゃないか」と思う反面、「わーい、ボクは日本人離れしている。日本人はやっぱり駄目だ」などとは手放しでは喜べない(そうやって喜んでいる人、ずいぶん多くないか)。

「らしい」ことがぴったりあてはまって「らしくない」ことは水に合わないこともあるだろうが、その一方「らしい」ことをしたって本人が納得いってなければ駄目だし、「らしくない」ことをしたってそれが本人の偽らざる気持ちならそれでいい。「らしい」「らしくない」という言葉の定義がこんなにフワフワしているんだから、それほどこだわる必要もないのかも。

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人間不信

のっけから「どうしたんだい」となるタイトルであるが、べつにぼくが人間不信になったわけではなくて。

人間不信になるメカニズム(?)をなんとなく発見できたような気がして。

さて詳しくは書かないが、ぼくは前の会社の代表に金を貸したまま返ってきておらず、給料も理由なく減らされた(説明を求めたが結局うやむやになった)。その他、マスコミにリークしたら盛り上がりそうなエピソードはいろいろある。

あきらかに不当な待遇を取られて、ヒドイ目にあった。

それで周りと関わりを持たないようにする「人間不信」の状態になってしまい、はっとした。こりゃ自分勝手な考えだと。

自分で自分のことを「人間不信になった」と感じるということは、それでまわりの正しい意見すら拒絶してしまう(「信じられない」と言って)ことだと思う。

結局それは、自分勝手にヘコんで自分勝手に人間不信になっているだけではないかと。

完全に個人的な偏見であるが「人間不信だとしょっちゅう騒ぐ人ほど相手の身になって考えることを怠っている」と思う。

そもそも、人間関係なんてパーフェクトな所があるほうがおかしい。世の中思い通りにならない事のほうが多いにきまっている。思い通りにならないことを思い通りにしようとするからおかしくなる。

「人間不信」ってそういうところからくるんじゃないかと思う。セールスでもそうだ。自分の売りたいものを自分の利益だけ考えて強引に売ろうとするから売れない。売れないからますます変に売ろうとすれば、変な奴が寄ってきて騙される。それで人が信じられなくなる。

だったらいつまでも「信じられない」と騒ぐより、やり方を変えればいい。モチロンそれは並大抵のことではないが、そうしないといつまでも他人を信じられない。

いろいろ騒ぎたくなる気持ちはわかるが、とりあえず動いてみないと始まらないのだ。

「最大の復讐は自分が幸せになってしまうこと」という言葉があるが、ようやくその意味を実感できているような気がする。ようやくだ。

ホント、この年齢にしてようやくである。

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中途半端

中途半端なたちである。

中島みゆきのファンが経営するバーに以前行ったことがある。

中島みゆきに特化したメニューがあるわけでなく、カウンターと椅子が数席あるいたって普通のバーで、特徴としては中島みゆきだけでなく吉田拓郎、井上陽水、その他にもフォ-ク・ニューミュージック歌手のレコードがずらりと並んでいるところ。店内BGMはもちろん中島みゆきだ。

中島みゆきや昔の曲は大好きなのでリクエストしてかけてもらったのだが、ちょっと困惑したことがあった。中島みゆきの曲がリクエストでかかると、みんなじっとうつむいてグラスを口に運ぶのだ。

中島みゆきといえば暗い曲、重い曲の代名詞と言ってもいいからそれが“正しい聴き方”なのかもしれない。

先ほども書いたがぼくは中島みゆきの曲が好きだ。新しいアルバムだって楽しみにしている。ただ、どうもみんなのその雰囲気には馴染めなかった。中島みゆきのファンがみんなそういう人かというと決してそうではないが、「生きる」という言葉に何か重いテーマを乗せて腹に抱えているような、そういう人が結構な割合で多いように思う。

だから中島みゆきの曲は暗いからとっつきにくい、と言いたいのではない。逆に流行のJ-POPばかり聴いて感動してる人は軽すぎるような気もするし。

ぼくはいろいろなもののファンではなるが、ちょっと冷静に見てしまうこともあるなと感じたのだ。つまり好きなものがあってもマニア的に極めずに中途半端な立場でいるというか。

第三者の目線で見れていい一方、好きだったらもうちょっと一生懸命になってもいいんじゃないかと思ってもいたり。中島みゆきを聴いてずーんとなる必要があるとかそういうことじゃなくて。

オチは特にないが、なんとなく考えていたことを記してみました。

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超能力

仮にだ。世の中の自分以外のほとんどの人間が超能力を使えたとしよう。

彼らは歩くなんてことをせずに移動は常に空中浮遊。机の上のものを取るのもいちいち立ちあがったりしなくたって、意のままに手元まで運ばれてくる。本のページを指でめくることすらしなくていい。

一方、自分は空中浮遊なんて出来ないので移動はせっせと歩いたり走ったりしないといけない。机の上のものは立ちあがって取りに行かないといけない。本を読むごとにページは手あかで汚れていく。

そして、世の中にはいろんな人がいる。

「可哀想」と同情してくれる超能力者たちのなかには走ってる自分を超能力でスピードアップさせてくれる人もいるだろう。机の上のものをわざわざ超能力で届けてくれる人もいるかもしれない。「本が汚れるから指で触るな」と言ってくるような人だっているかもしれない。

自分が趣味でしてる山登りやマラソンの様子をメディアが取材にくるかもしれない。超能力がないというハンディを乗り越えた感動のストーリーとして大きく報道されるかもしれない。

自分は人を笑わせるのが好きだからお笑い芸人になったとして。超能力がない分、あんな笑いもこんな笑いも作れる。やがて人権団体から「超能力を使えない可哀想な人にどうしてあんなひどいことをさせるんだ」と猛抗議が来るかもしれない。結果、好きだったお笑いが出来なくなってしまうかもしれない。

もしも自分だったら、超能力が使えないことが美談とかお涙頂戴とか思われるのは仕方がないけど、心の中ではそう思われるのはやっぱりちょっと嫌だと思うね。そもそもそんな素晴らしい人間でもないし。

世の中にはほんとうにいろんな人がいる。

ミゼット・レスラー(いわゆる“小人レスラー”)のホーンスワグルは好きです。リアクションがおもしろいのと同い年だという所が。

ちなみにHornswoggleはホーンスワゴーと読むのが正解。googleはグーグルじゃなくてグーゴー。ゴーゴー。行け行け、ゴーゴーコイケヤ、ポテトチーップスてなもんや。

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ヒューマン映画

感動には2種類あるらしい。

ひとつは感動するだけの準備を必要としない場合。大海原や渓谷、草原なんかの絶景を見て、自身の規模を遥かに超えたものに対して無条件に「すげーなー」なんて心動かされるのはこれだ。

もうひとつは準備を必要とする場合。もっとわかりやすく言うと、意味がわかると感動できる場合だ。たとえば、どこかの国で神格化されてる石像があったとしても、知識がないとただの石にしか見えないなんてこともある。

感動とはちょっと違うかもしれないけれど、むかしから感じてることがあってのう。

家族連れがおもちゃ屋さんで買い物してるさまを見ると、胸がキュンキュンくる。おもちゃの大きい箱をお父さんが抱えてたり、そこにおばあちゃんがいたりなんかするともういけない。

あと、ドリフのコントで志村けん扮する貧乏一家の子供が初めて長靴を買ってもらい、「これで濡れてもへっちゃらだい」と水たまりで遊んでる場面があって、なんかキュンとしすぎて半泣き状態になった。

あれは、あれはいったいなんなんじゃろうかのう。決して「ヨカッタネ」とかそういうんじゃなくて。

なんとなく。なんとなくだが。

「震える舌」はヒューマン映画だと言う人がいるの、わかるような気がするんだ。まだちゃんと観たことないんだけどね。

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